石徹白洋品店のかおりさんと話す時によく出てくる言葉として
「愛のある服作り」
とか
「幸せな服作り」
というのがあります。
新しいものを作る時、新しいことをする時
この2つの言葉を体感できているか、
ここから離れていないかを話しながら、確認しながら
服作りをしています。
人によっては大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、
自分達が今心地よいか、幸せだなと思えるか
一緒に関わって下さっている方も心地よいか
満足感、充足感があるか。誰かが辛くないか。
(メンタル的に、金銭的に全ての側面を含めて)
というとてもシンプルなことです。
とてもシンプルで根源的なことだけれど
私は東京で服作りをしていた時には決して言えない事でした。
そんな甘っちょろい感覚で人を感動させる物が作れるはずがない
もっともがいて苦しんで作らないと面白くない。価値が無い。
と思っていました。
これは、私に限らず
服作りをしている人にとってマジョリティな感覚だったと思います。
コムデギャルソンとかヨウジヤマモトの影響も大きいと思います。
80年代の思想をずっと受け継いでいて。
どれだけストイックになれるか 幸せだったら表現する理由がない。
それがかっこよかった。
私は今でもギャルソンもヨウジも大好きで、
ストイックな世界観に今も感銘を受けます。
でも、そのスタンスで私が物作りをしようと思うと
苦しい。
私にとっては古い自分に戻るような感じ。
これは、コムデギャルソンの時代が終わったみたいなこととは全く別の事です。
よくファッションの批評で「◯◯の時代は終わった」という表現があるけど、 私はあまりその言葉が好きじゃない。
私は闇を昇華させて生み出されるような服作りも面白いと思うし 世界のバランスとして、あったら素敵だと思う。
クリエイションはそれ自体がポジティブな行為であって 今も新しいものを生み出し続けている人達に対して 終わったなんて誰が言えようか!
と思ったりします。
ただ単に、趣味が違うだけ。
今は、苦しくないと、不幸でないとクリエイションは面白くないという思い込みから抜け出して
豊かで幸せであるところから
より面白いものが生み出せるという
世界に自分を置いて、何かを作りたいと思っています。
私にはそっちの方が創造的で、より可能性に対してオープンで。
生み出すものに「救済願い」みたいなエネルギーがなくていさぎよくていいなぁと思います。
私が闇から何かを生み出そうとすると
どこかで「助けて欲しい」「認めて欲しい」というエネルギーが強くのる感じがする。
先日、美濃のマーマーマガジンのお店で「iai」というブランド名のお洋服たちを見に行きました。
そこで感じた、メモしたことを文章化しようと思ったけど
うまくできないのでそのまま投稿
iaiさん 田舎でのクリエイション 東京にいないと、刺激がないとというのは あまりに外側に刺激を求めすぎているのかも
「そんな可愛らしい服年だから着れん。似合わんよ」なんて一見言われそうなのだけど
近所のおばあちゃんたちは、 いあいさんのことが 可愛くて仕方なくて
どんな個性的な服でも着たくなっちゃう
腕が太いからノースリーブはやめて とか、 太って見えない服とか ネガティブを隠すことにフォーカス した服作りは東京にいた時に度々求められることだったけれど
毎回つまんないなぁ、面白くないなぁとよく思っていた
そのプルプルの二の腕も お腹も 太い足も そのままでいいから、だまってきてみなよ、似合うから。 ほらね。
みたいな瞬間がたまにあって、それがとても好き
コンプレックスを隠して、貴方の美しさをより引き出します とかよく聞くけど
植え付けられた、作られた私たちのコンプレックスを隠す願望も すんなりと凌駕してしまうような。
私、日頃こういう服着ないんだけどおばあちゃんが作ってくれて
なんか好きなんだ
とか
お母さんが◯◯の時に買ってくれて
とか
それに似た愛のようなものをベースに、作る人がどんな表現をするかという
ものが主流になってくるだろうな。
私が見てる世界では。
愛のある服と出会えて幸せな気持ちになった
なんて思いました。